「若いうちから贅沢すると、年をとってから苦労するぞ」
それが父の口癖だったような気がする。
「コツコツ貯めて、いつか持ち家を建てる」
そう言って、家族を町営団地へ押し込めた。
言っていることは実に素晴らしい。だが、言うワリには結果のついてこない人間だった。
真面目だが要領が悪いとか人が良いとか、そういうのが原因なのではない。
理想とプライドだけが異常に高く、だが実力が伴わず、そしてケチだった。
「上司に媚売って出世するような、恥知らずになるつもりはないさ」
次々と役職についていく同僚に遅れをとりながら、決して己の努力不足や力不足を認めようとはしなかった。
バブルが崩壊し、企業が挙ってリストラをし始めると、「俺は企業には頼らない」「頭なんか下げなくったって、実力で生き抜くんだ」「もっと夢のある人生を歩くべきだ」などと言い放ち、妻に相談もせずに自主退職してきた。
だが、夢のある人生への転職活動は、思うようには捗らない。
そもそも、彼の夢とは何だったのか………?
企業の保護下から飛び出した世間知らずは、実力の世界から爪弾きにされ、やがてタクシーの運転手で生計を立てるようになった。
それでも彼は、己の無力を認めようとはしなかった。
「今 俺を笑っただろ?」
プライドの高さは、彼を極度の被害妄想へと陥れた。
彼に客商売など合うはずもない。友達もいない彼にとって、溜まるストレスの捌け口は家庭しかない。
金がないはずなのに酒量が増えて、部屋にはタバコの煙が充満した。その霞んだ世界の中で、父と母は言い争った。
狭い町営団地の一部屋。二人の怒鳴り声は常に聡の耳にも届く。
うるさかった。
とにかくとてもうるさかった。ただそれだけだったのだ。
突然食卓の椅子を放り投げて怒鳴り声を上げた幼い息子。その行動に、正雄は大きな恐怖を持った。
産まれつき体格が良かったといっても、聡はまだ子供、幼児だ。そんな息子にですら恐れを感じるほど、正雄は小さな人間だった。
「つまらないのか?」
泰啓の言葉に、聡はハッと我に返る。
見ると横では、義父が少し戸惑ったような顔を向けている。
「ひょっとして、空手の試合なんか、見たくなかったとか?」
「いや………」
曖昧に答える義息子の言葉に、泰啓は再び視線を会場へと戻す。
「空手は…… もうやらないのか?」
「…… 空手部ないし」
「道場なら、探せばあるんじゃないのか?」
「まぁ………」
「やりたくないのか?」
「そんなコトないけど………」
「嫌な思い出でもあるのか?」
「別にそういうワケじゃあ………」
何を聞いても明確な答えを出してこない聡に、泰啓はやがて口を閉じた。
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